【織物の最上級品】麻の歴史の中に見る奈良晒

 映画やドラマで、裃を着た武士が、居並んだ光景というのを見られたことがあるのではないでしょうか?
 裃とは、肩衣(かたぎぬ)という袖のない上衣と袴(はかま)を組み合わせたもので、同色同質の素材で作りました。
 裃の素材は、「麻」が正式と決められていました。江戸時代には、その裃用の高級麻織物の産地として、奈良が名高いでした。特に、「奈良晒(ならざらし)」は、幕府御用品として、その名声をほしいままにしました。
 この記事では、その奈良晒の歴史や特徴などをまとめました。

奈良晒の歴史

 奈良は、古来より寺社仏閣が多く、それに関わる神官や僧尼もたくさん住んでいました。そのため、彼らのための衣服への大きな需要があり、鎌倉時代以降、奈良の麻織物は、神官や僧尼の衣として好まれてきました。
江戸時代の初め、清須美源四郎(きよすみげんしろう)が、従来の晒し法を改良し、奈良晒の新手法を完成しました。その出来栄えを、徳川家康が賞賛し、幕府の庇護を受けて、販路が拡大していきました。
 1657年(明暦3年)、奈良町の惣年寄が麻布に、「奈良改」の検印を押し、幕府御用品として、商業生産がはじまり、南都随一の産業として発展します。当時、「町中十の物九つは布一色にてつかまつりそうろう」と言われました。多くが、麻産業に従事していたことがわかります。
 幕府御用品となったことで全国にその知名度が広がり、奈良晒業は、大きく発展しました。江戸時代の最盛期には、毎年、30万~40万疋(1疋は2反)を生産していました。ピークは、元禄期と言われています。
 武士の裃の最上級品として、また、町民の贅沢な単衣として人気がありましたが、その後、他国産との競争に敗れたことと、明治維新によって、武士という最大の市場を失ったことによって、その生産は、急速に衰退していきました。ただ、江戸時代を通して、奈良晒は、「最高級の麻織物」という名声をほしいままにしました。
 明治以降、奈良の麻産業は、衰退の一途を辿りますが、奈良県東部の大和高原では、貴重な現金収入として、その後も技術が継承され続けてきました。

奈良晒の製法

 奈良晒は、その品質で、江戸時代には、幕府御用品となりました。また、江戸時代の、各地の名産名所を描いた「日本山海名物図絵」は、奈良晒を、「麻の最上とは南都なり。近国よりその品種を出ずれども、染めて色よく、着て身にまとわず、汗をはじく故に、世に奈良晒として重宝なり」と絶賛しています。
 そのような最上の麻を作るためには、手間暇を厭わない、丁寧な作業が要求されました。奈良晒を作る工程は、糸つくり、織り、晒しの三工程に分かれます。
 原料の青苧(あおそ=乾燥した麻皮)は、山形、秋田などの東北から、北陸からは、絈糸(かせいと)として送られてきました。青苧は、苧麻の繊維を精製加工したものです。
 仲買が賃織りに出し、製品は晒問屋に売り、問屋はそれを晒屋に出しました。糸つくりや織りは、奈良東部の耕作地が少ない大和高原を中心に、農村女子の農閑期の家内副業として行われました。貴重な現金収入だったため、明治以降も途切れることなく、技術が継承されてきたことは、奈良晒にとっては幸いでした。
 いよいよ、奈良晒をたらしめる晒の技法ですが、晒屋は、織られた麻の織布を藁灰の灰汁(あく)で煮て、木臼でつき、何回も灰汁をかけ、晴天に乾かしました。こうすることによって、白く光沢のある奈良晒が出来上がります。
 これによって、奈良晒自慢の白さと肌ざわりになるのです。この手間暇が、高級麻織物を生み出したのです。

奈良晒の特徴

(白く光沢がある白麻)

奈良晒といえば、その白さと光沢が身上です。前章でも書きましたが、「日本山海名物図絵」でも、その品質が絶賛されています。

 奈良晒は、麻の生平(きびら=さらさない麻糸で平織りにした布)を晒して、純白にしたもので、主に武士の裃や僧侶の法衣として使われてきました。古くから、社寺でも多く使われ、宮内庁、伊勢神宮、神社庁などにも献納されています。
 手間暇かけて晒された奈良晒の、白さ、光沢は、そのままでも、染めても美しい上布になります。
 さらに、茶道の大家、千利休が、かつて、「茶巾(ちゃきん)は、白くて新しいものがよい」と語ったとされ、純白で光沢のある奈良晒は、利休好みの茶巾として、人気を誇りました。
 奈良晒といえば、その白さが誉められますが、その肌触りにも定評があります。またまた、「日本山海名物図絵」の引用で恐縮ですが、「着て身にまとわず、汗をはじく」と賞賛しています。
 奈良晒は、色、光沢、肌ざわりのいずれもがどこにも負けない最上級品です。

奈良晒を支えた人たち

 奈良晒は、江戸時代初めに、清須美源四郎の晒法の改良によって、大きく発展することとなりました。
清須美源四郎:
清須美源四郎は、元武士で、天正10年の戦いで、徳川家康に従い、戦功を立てましたが、厭戦感から武士を返上し、奈良で晒し布業を始めます。まったく初めての晒つくりでしたが、苦労して試行錯誤を繰り返し、従来の晒法とは一線を画す画期的な技法を生み出しました。
 家康が、元部下(=源四郎)がいる奈良に寄った際、その部下が作った晒し布の出来栄えに感激し、毎年三河に送るように申しつけました。これがその後の、幕府御用品となる基となりました。
清須美道清:
 清須美源四郎の孫。奈良晒を扱った幕府御用商人で豪商。奈良晒の生産、流通に大きな貢献を果たしました。東大寺南大門、若草山、春日山を望む絶景地に、近くを流れる吉城川の水を引いて、別邸としました。そこは、水量豊かな吉城川のそばにある、かつての晒し場でした。

現代の奈良と奈良晒

(依水園:著者撮影)

 東大寺南大門、若草山、春日山を望む絶景地に、奈良を代表する庭園、依水園(いすいえん)があります。アメリカの日本庭園専門雑誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」で7位に選ばれているので、奈良を訪れる外国の方にも人気のスポットです。
 依水園は、前章で取り上げた、奈良晒の創始者、立役者ともいえる豪商清須美家の庭園でした。かつて、春日奥山から流れ出す豊富な吉城川の水を引き入れた晒し場があった場所です。若草山、高円山などを借景とした、立派な池泉回遊式庭園です。
 二つに分かれる庭園のうち、前園を江戸時代に、清須美道清が作り、後園は、明治時代に関藤次郎が作りました。関も、奈良晒業者です。
 この庭園を見ると、奈良晒によって、いかほどの富を築いたのかと想像できます。奈良に来られることがありましたら、ぜひ、依水園を訪ねてみてください。
 また、現代の奈良と奈良晒を語る時、中川政七商店を抜きには語れません。今は、全国にファンが多い中川政七商店ですが、十代目中川政七は、明治期において廃れてしまったかもしれない奈良晒の再生に尽力しました。
 現代、中川政七商店の本店の「遊 中川本店」があるのは、もともと奈良晒の商いの仕事場だった場所に立っています。
 その他にも、文久三年創業の岡井麻布商店では、手織り麻製品、麻糸はじめ、茶道各流派の茶巾も売られています。

まとめ

 この記事では、麻の最上級品、奈良晒についてまとめました。奈良晒という言葉を初めて聞かれた方もおられたかもしれません。
 この次、奈良に来られる際には、奈良晒という視点で奈良を楽しまれても楽しいですよ。

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引用元

https://sunchi.jp/sunchilist/narayamatokooriyamaikoma/115411
https://sunchi.jp/sunchilist/narayamatokooriyamaikoma/115411
https://sunchi.jp/sunchilist/narayamatokooriyamaikoma/115411
https://www.sankei.com/west/news/140525/wst1405250053-n1.html
http://lite.c.ooco.jp/hard_column/no_nippon_2277.html
https://sunchi.jp/sunchilist/narayamatokooriyamaikoma/115411
https://sunchi.jp/sunchilist/narayamatokooriyamaikoma/11541

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